2006年7月1日土曜日

道 (2006/07/1)

 道
部屋中に資料を広げ、机に向かい続け、 
ようやく核をテーマに書き続けていた文章が仕上がってきた。 

あとは推敲です。 
もう数日かかりそうです。 

さて。 
核、放射能、放射線というものに向き合う中、 
「道」ということをよく思う。 

原子力発電は安全か否か。 
必要か否か。 
止めるためにはどうしたらいいのか。 

そこに思いを巡らせることはとても大切なことだと思う。 

でも、そこで導き出されるものは、あくまで答え。 

答えが出た所で、答えを現実にするにはどうしたらいい? 

答えに向かって進むべき道は? 

浮かんでくる疑問の数々は、突き詰めていくと結局 
「いかに生きるか」 
という問いに収束されてしまう。 

ウラン、プルトニウム、 
その他原子力発電を実行するそれぞれの過程で生まれる 
放射性物質。 
それらの危険性、 
原子力発電所の排出する放射性物質の量、 
耐震性、 
ガンや白血病とどう結びつくのかという科学的根拠。 

それらは果たして、原子力発電の是非を問う上で 
どれほど重要なものなのだろうと、ふと疑問に思った。 

放射能に関する様々なデータや数値、 
安全性、科学的根拠、 
そこに本当の答えはあるのだろうか? 

命に対する敬意、思いやり、 
自分の命を取り巻くものへの想像力。 
そこに意識を向けろ、という声が聞こえてくる。 

ウランの鉱脈が発見されたおかげで暮らしていた場所を 
追いやられ、 
ウランの危険性を教えられずに採掘作業に従事させられ、 
肺がんや白血病を患っている先住民たちの姿。 

被ばくするかもしれない、 
いつか病気が発症するかもしれないと不安を抱えながら働く 
原発労働者たちの姿。 

彼らの心境や、生活そのものに思いを馳せたとき、 
どんなデータを提供されたとしても、 
今のままでいいとはどうしても思えない。 

そして同時に、 
原発を止めるという結論だけを追いかけたいとも 
思えなくなってきている。 

もし自分が電力会社の社長だったら。 
社員の給料の支払い、 
株主たちへの配当、 
相当なプレッシャーがあるだろう。 

また、過疎や財政の落ち込みに歯止めが利かない中で、 
自分がその土地の村長や町長だったらとも思う。 
どうにかして財政を立てなおさなければという思い、 
目の前に様々な問題が迫まってきたときに 
差し出される巨額の助成金。 

分かっていることとやっているのことのギャップ。 
矛盾、葛藤。 
それは、誰の心の中にもあるものだ。 
今やっている仕事を辞めたいのに辞められない、 
喧嘩したくないのについしてしまう。 
そんな経験、誰でも持っているものではないだろうか。 

原発推進側だって、 
頭では分かっていても原発を止めることは出来ないと 
悩んでいるのかもしれない。 

そして、原発で働く労働者の中には、 
原発は安全と思い込むことで心のバランスを 
保っている人もいるだろう。 

その心を乱暴に揺さぶることはしたくないとも思う。 
少なくとも、同じ心を持つ仲間であるという配慮は 
忘れたくない。 

原発を推進している人間ひとりひとりにも、 
自分と同じように「心」があるということだけは、 
忘れない自分でいたい。 

どんな立場にいようと、どんな場所に暮らしていようと、 
すべては同じ地球に暮らす仲間であり、 
同じように悲しんだり不安を抱いたりする人間。 

誰かを打ち負かすのではなく、 
誰かに責任を負わせるのではなく、 
反対、賛成を越えたところで 
すべての仲間、ひとりひとりが幸せになれる道を探したい。 

見ようとしなければ見えてこない人の心。 

そして今問われているのは、 
「目に見えないもの」に思いをめぐらせる想像力では 
ないだろうか。 

今使っている電気が誰のどんな思いをのせて 
どんな経緯で送られてきているのか。 
そこに思いをはせることは、 
水はどこから来ていて、 
食べ物はどこから来ていて、 
命はどのようにつながっているのかという、 
目に見えない真実に気づくきっかけになる。 

そして、 
すべての生が等しく尊いものであるという認識は、 
結果として自分自身の生を認め輝かせることにも 
つながるのではないかと思う。 

核、放射能、それは目に見えないもの。 
そして、 
遠い国で被ばくに苦しんでいる仲間たちの姿も 
目には見えない。 
同様に、原子力発電を推進しているひとりひとりの心も、 
目には見えない。 

問われるのは、愛に基づいた想像力。 
思いやり、命への敬意。 

目に見えない思いが、すべてのいのちをつなぐ。 

核を取り巻く目に見えないもの、 
心、不安、恐怖、孤独、 
それらに思いをはせ、 
愛と共感の目で見つめていくことが出来たときに、 
「これからどうしたらいいのか」という、 
目に見えない未来を作り出していけるような気がする。 

核というテーマに向き合っていく中で出会う仲間との関係、 
彼らとの語らいや行動、経験、 
日々の積み重ね、 
自分の中に生まれる気づきや学び、 
少しずつ見えてくる自分自身と世界とのつながり、 
それらひとつひとつを大切に、 
一歩一歩歩んでいくその足跡を大切にしていきたい。 

その道の上では、 
自分自身の中にある矛盾とか葛藤とか、 
不安とか焦りとか、色々出てくる。 
よく見られたい自分とか、 
正しくあろうとしちゃう自分とか。 
人に何かを押し付けてる自分とか。 

大いなるテーマは、大いなる学びをくれる。 

何はともあれ歩むべき道があるということは、有り難いことだ。 

世界と自分が分ちがたくつながっている以上、 
自分自身の道を極めていくことが、 
助けたいと思う仲間を本当に助けられる自分になることに 
つながるんだろうな。 

放射能はオイラに「ハートを開き切れ」と言っているようだよ。 
長い道のりだ。 
少しずつ見えてくるひとつひとつを大切に、 

一歩一歩いこう。